この休職期間を通して、自分に対してある種の「諦め」がついてきた、という感覚があります。
仕事をしている期間は、常に「こうしなきゃいけない」という感覚に追われていました。短期的なものでは仕事のタスクや人間関係、長期的なものでは人生の時間の使い方、自分のあり方など、すべてにおいてそういう感覚がありました。自分が努力家だとは思わないのですが、だからこそ、自分が当然と思っていた「無理」に気づいていない節がありました。
無理をしている自覚はなかった、というより、当然我慢すべきものと捉えていたと言った方がいいかもしれません。それは、他の人も一見我慢しているように思えたし、自分が堪え性のないことを自覚していたからですが、つまるところ、自分が「できる無理」と「できない無理」を区別できていなかった、ということなのだと思います。しかし、休職という「強制終了」によって、「とりあえずあなたは今無理だから休んでください」という状況に置かれました。 そうなってみて初めて、「自分はいろいろな側面で「できない無理」をしていたんだな」と気づいたのです。
休職というきっかけは、「できない無理は、やっぱりできないな」という諦めをもたらしてくれました。
諦めというとネガティブに響きますが、自分をすり減らしてまで何かを成し遂げても、その結果自分が暮らせなくなってしまっては元も子もありません。そうせず、「自分を壊さずに、できる範囲で願望を叶えていく」ための工夫を、休職期間を通して学んでいきたいと思うようになりました。

たとえば、自分は趣味で音楽活動をしていますが、その音楽活動で、売れている人を羨ましく思う気持ちはあります。でも、「売れるために、あの努力は自分ができるのか? したいのか?」と考えた時、「これは絶対にやりたくないぞ」というものがある、ということが見えてきました。それを「諦める」ことで、別の方法に変えたり、目標自体を改めて考え直したりすることで、もっと自分に合った目標と方法に力を注ぐことができるようになります。 そういう意味での「諦め」が、少しずつできてきたのかな、と思います。
これが本当にポジティブに作用するのか、諦めすぎて人生が立ち行かなくなってしまうのかは、未来になってみないと分かりません。 それでも、これまでは自分をすり減らし続けていたことを考えると、今こうしたことに気づけているのは、悪くはないのかな、と、今は考えています。自分の中で、休職という出来事はそういった意味合いを持ち始めています。


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