休職中、他人と比べてしまい、不安な気持ちになる

休職について

こんにちは。今日は、休職中にどうしても抱いてしまいがちな、「他人と比べて自分は……」という気持ちについて書いていきたいと思います。

比べてしまう気持ち

休職中、家にいても、街を歩いていても、どうしてもうまくいっている他人と自分を比べてしまうことがあります。 自分の場合は、仕事もそうですが、趣味の音楽活動で、うまくいっている人と比べてしまうことがよくありました。

休職して時間はできましたが、当然音楽活動ができるほど元気ではありません。曲も作れず、ライブもできない。 そうすると、時間があるのに何も進められない、という状況になります。仕事をしている時よりも「時間がないから」という言い訳がなくなる分、かえって辛いところがありました。

こうして比べてしまっている自分に気付いた時、「ああ、いけないな」と思うのですが、比べてしまうことを無理やり止めることはできません。「あぁ、今、比べちゃってるな」と、それを受け入れるしかないのかなと思います。

自分の人生に対する不安

ただ、問題の本質は「比べること」よりも、「自分はこのような時間の過ごし方をしていていいのか」という不安そのものにあるのだと思います。 キャリアにおいても、人生の限られた時間という意味でも、この半年、あるいは1年になるかもしれない時間を「無駄にしているのではないか」という感覚が、今もすごく不安です。

休職してもう半年以上になりますが、この期間を有効活用できたのか、と聞かれると、よくわからないとしか答えられません。いや、そもそも休職期間は有効活用するものではないはずです。回復のための時間なのであって、何か他のことに使える自由な時間ではないはずなので、有効活用できないのも当たり前です。ただ、それを言うと、そもそも自由な時間を半年以上奪われて、回復に専念することを強いられている状況が、人生全体で見た時に有意義だと言えるのかどうか……。

さらに引いた目で見れば、人生というものが、そもそも有意義だのなんだのと言えないものだとも思います。というのは、これは個人的な考えですが、あらゆる人生がその人生の内部においては「よかった」とか「有意義だった」とは断言できないのではないかと思っているからです。それは、すべてが終わった後に初めて明らかになることであり、つまり、人類が滅亡し、自分の歴史が完全に終わった段階でないと不可能なのではないかと思っています。

いかなる生き方をして、いかなる死に様を晒したとしても、その人生が、傍目に見て輝かしそうに思える人生(今の時代なら、大谷翔平の人生でも思い描けばいいでしょうか)と、その意義なり「よさ」なりにおいて等価に不明であると心底思えるのなら、自分の人生の時間の使い方が有意義でないことに煩悶としなくてもよくなるのだと思います。しかし、現実には、やはり自分の死を意識すると、そこまでに何もできないのではないか、という感覚に襲われる……。

人生でやりたいこと、の意味

そう考えていくと、自分が有意義かどうか、と考えていることも、より厳密には、自分が人生において漠然とやりたいと思っていることをどれぐらいできるか、ということに、差し当たっては影響されているのではないか、と思えてきます。

  • 生活が安心して送れるだけの収入を得て、余裕のある気持ちで幸せに暮らしたい
  • 音楽活動において、それなりの人数に評価されてみたい
  • 自分の知らない人が自分の作品に触れて、言及されているのを見てみたい
  • 自分の人生をなんらかの形で積み重ねたもの(本?ブログ?)を書き残したい
  • AIが発展して、社会がどれだけ根本的に変化していくのかを見てみたい

などなど……。漠然としていて、自分のキャパシティなどとは全く関係ないもので、目標と呼ぶにはあまりにおぼつかないのですが、こうした漠然としたものが成し遂げられそうもないまま、自分の人生の時間がジリジリと減っていくような心持ちになるので、不安な気持ちになるのだと思います。

あくまで自分の内面を眺めた場合だけの話ですが、他人と比べているというよりも、他人は、自分の中にある欲望を引き起こすきっかけでしかないのかもしれません。この不安とどう向き合っていったらいいかは、今は結論が出せないので、引き続き宿題にしたいと思います。

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